
中野の歴史 囲町「お犬囲い」に秘められた謎?(前編)
中野の歴史 囲町「お犬囲い」に秘められた謎?(前編)
私は中野生まれ中野育ちで現在も在住しています。中野の古い歴史について遡ろうとすると、それなりに史料に現れてくるのですが、しっかりと中野を認識できる時期は、せいぜい近世か中世といったところになるようです。農村地帯であったということ以外にあまり情報がないというのが現実でしょう。
しかし、そんな中野でも歴史の教科書に登場するような話に関係する時期があります。それは江戸時代です。中野と江戸幕府の関係は三代将軍家光の頃から「鷹狩の場所」として記録に出てきます。家光は7年間に29回も中野に鷹狩りに訪れているそうです。
そして、特筆すべきが五代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」により、現在の中野駅周辺に大規模な「お犬囲い」が作られたことです。
中野区HP『なかの物語 其の五 徳川将軍家と中野』に説明があります。
https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/kanko/shiru/nakanomonogatari/sono5.html

<以下抜粋>
5代綱吉の頃は、ご存じのとおり「生類憐みの令」が出され鷹狩りは行われなくなりました。そして中野にはお犬様を養育するためのお囲い(犬小屋)が設けられたのです。お囲いは始めに現在のゼロホールの辺りにつくられましたが、足りなくなり、現在のサンモールのあたりに二の囲が増築されました。さらに区役所と警察大学校跡地に三の囲、さらに警察大学校跡地と環状七号線あたりまでに四の囲、そして今度は南側中野三丁目全域に五の囲と増築を続けたところで、綱吉は死去し、直ちに廃止されました。面積は約30万坪(約100ha)にも及び数万から30万頭の犬が養育されていたといわれています。1年間の総経費は98,000両といわれ、現代の価格ではおおよそ122億5000万円前後といったところでしょうか。その一方、当事者の綱吉が中野にきたという記録はありません。
<抜粋おわり>
中野区公式観光サイト まるっと中野「なかの物語 其の五 徳川将軍家と中野」より
生類憐みの令は一般的には綱吉による世紀の愚策と評され、綱吉が早世した我が子を嘆き、死や血の穢れを忌避して異常な政策を強行したとも言われています。理由はどうあれ、綱吉が没すると、生前に生類憐みの令を堅持せよと厳命したにも関わらず、即時停止されたことから、失政というのは間違いないでしょう。
ただし近年の研究では、生類憐れみの令は儒教に基づく文治政治の一環であるとして、再評価がなされているようです。特に、生類憐れみの令の一環として出された「捨て子禁止令」が綱吉の死後も続いたことから、生類憐れみの令は、子どもを遺棄することが許される社会から許されない社会への転換点となったとも評価されています。その後、子どもを遺棄する行為が悪と考えられるようになったことから、遺棄された子どもを保護する仕組みが構築されていったそうです。戦で覇を競い殺しあった戦国時代が完全に終わり、平和で文化的な社会を築くために、極端ではあれども殺生を禁じたのではないかという評価もされています。
そのため、かつては単なる悪法という扱いでしたが、1990年代頃から歴史教科書などで、社会の変革を意図した法であるという解説が加えられるようになったそうです。
そして、八代将軍徳川吉宗の時代には、中野駅南側に「桃園」が作られ、江戸の名所となったそうです。この敷地は、明治時代以降に日本軍に利用され、防諜研究所や後方勤務要員養成所を経て有名な陸軍中野学校となります。さらに戦後、その施設は警察大学校・警視庁警察学校に転用されたという話は、ご高齢の中野区民なら多くが知るところでしょう。
ここでひとつ考えてほしいことがあります。
「お犬囲い」を作ったのは誰か?
「そんなの、徳川綱吉でしょ!」という声が聞こえそうですが、綱吉は作るよう命じたのであり、実際に犬小屋や囲いを作ったのは綱吉でもなければ、徳川幕府の人間でもないのです。
江戸時代(中期頃まで)は「手伝普請(大名普請)」という制度があり、江戸幕府が発する各種公共事業の多くは諸藩に割り当てられて実施されました。
実は、中野の「お犬囲い」は、現在の岡山県中部に位置する比較的小規模な津山藩が主に普請しました。ここで、なぜお犬囲いの造営にもっと強大で有力な藩ではなく、津山藩が命ぜられたのかという疑問が生じます。
そもそも普請制度は武士社会における「御恩と奉公」に根差し、幕藩体制の中で徳川幕府に対する忠義を証明するための格好の機会を提供する重要な制度であったものの、その実、幕府側からすると、戦国時代の遺恨がある有力外様大名の財力を削ぎ、将来の脅威を排除し、徳川幕府の支配体制を盤石なものにする意図があったと言われています。幕府はなぜ津山藩のような小藩の財力を削ぐ必要があったのでしょうか。
事実、津山藩の森家はこの普請が原因で藩財政が破綻する憂き目に遭い、さらに藩主や後継者の不自然な死や急死も複数あり、後継ぎが途絶え、「お家取り潰し」となってしまいました。(森家分家系統は別の藩として残る。)
この森家というのは、織田信長に仕え信長と一緒に本能寺の変で討たれた森蘭丸の森家といえば聞き覚えがある方もいるのではないでしょうか。
もし徳川幕府が意図的に津山藩森家をお家取り潰しに追い込んだとすると、その理由は一体なんなのか(怪死なども謀殺?)…、実に謎めいた話になります。
(後編につづく)

