
中野の歴史 囲町「お犬囲い」に秘められた謎?(後編)
中野の歴史 囲町「お犬囲い」に秘められた謎?(後編)
お犬囲いの普請によって藩財政を破綻させることになった津山藩の森家ですが、古くは津山藩の領主ではありませんでした。領主となったのは慶長8年(1603年)で、織田信長の家臣であった森可成の子の森忠政が信濃川中島藩より美作(みまさか)国に入部し、津山藩が立藩されたことに始まります。
それ以前の津山を含む美作国は備前岡山藩主小早川秀秋が領していました。小早川秀秋と言えば、関ケ原の合戦で東軍に寝返り、東軍勝利の契機をつくった武将です。ここにも何か因縁を感じますが、記録では秀秋の無嗣子での死去によってお家廃絶となったそうです。
徳川幕府の世になると、森家は国変えを命ぜられ、森忠政が津山藩の領主となるべく美作に入国しますが、なんとその際に地元武家や郷士郷民たちに入国阻止されるという事態に遭ったそうです。以降、津山藩森家の運命は激動の一途を辿ります。
下記は、岡山県立津山高等学校卒の福田和義氏によるWebサイトに記載されていたものです。(すでに当該Webサイトは閉鎖され、閲覧はできなくなっております。)
こちらで森家の入国からの趨勢を辿ることができます。筆者は衝撃の展開に驚きを禁じえませんでした。
<以下抜粋>(下線、太字は筆者による)
4.津山藩森家の悲劇
天正10年(1582)6月織田信長と共に本能寺で戦い戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の末弟美濃金山城主森忠政は慶長5年の関ヶ原の合戦で関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍が上田城主真田昌幸に阻止され苦戦しているのを助けた功績で慶長5年、徳川家康に信州川中島13万7千500石の城主に封じられた。のち慶長8年(1603)、美作18万6千500石の津山藩主に封じられ森家初代藩主となった。それ以降、森家は断絶の元禄10年(1697)までの95年間外様藩主として美作を統治した。
しかし、徳川幕府の基盤を一層強固なものにするための有力外様大名の取り潰し政策と、美作に存在した後南朝断絶を計るため森家は幕府により取り潰された。4.1 津山藩森家家譜
藩主 出自 治世 特記事項 初代 森忠政 森可成の10男 1603年より32年 33才で津山藩主、京都にて毒殺(65才) 2代 森長継 森忠政の外孫 39年 25才で藩主に、65才で隠居、89才で没 3代 森長武 森長継の3男 13年 42才で隠居、謀反の理由で幕府から切腹を受命(52才) 4代 森長成 森長継の長男忠継の長男 11年 16才で藩主、27才で江戸屋敷にて急死(毒殺か) 5代予定 森衆利 森長継の12男 0年 江戸出府中、桑名宿にて乱心、宝永2年33才で没 4.2 初代藩主森忠政の美作入国
1)美作には取り潰された主家小早川家の再興を目論み、植月御所を支援する豪族がおり、毛利と組み徳川と決戦をとの野望を持っていた。そこに徳川に忠実な森が国主では野望が挫折すると考え、美作東部の難波、新免、安東、有元、江見、草刈氏等が語らい、美作西部の三浦氏がこれに呼応し郷民3000人を動員し国境杉坂峠の閉鎖等の入国阻止行動に出た。2)忠政はかねて京都にいたとき兄蘭丸とともに旧知の間柄であった仁和寺におられた覚深法親王に密かに助力を願った。幕府政治をこころよく思わなかった親王は、このとき幕府によって仁和寺に幽閉されていた。親王は忠政の要請をいれ腹心の清閑寺徳守卿を植月御所に派遣し、森忠政が美作に無事入国できたら植月御所を支援することを条件に有元、安東、新免等の説得を働きかけた。
3)一方、忠政は作州小原に結集中の有元、安東、新免に使者を送り「将軍免による森の入国を阻止することは征夷大将軍に反抗することであり、早晩大軍により殲滅されることになる」ので早々に陣を解くよう説得し、陣を解けば今回の反抗は不問とするとの約定書を提示した。そして「森家は美作南朝の尊厳をわきまえ忠節を尽くし、京の天皇家と交互に皇位に就くよう努力する」と約束した。その結果、忠政は慶長8年(1603)3月26日に院庄の館に入ることが出来た。入国後、鶴山を藩政の拠点に定め13年かけ五層の天守閣を持つ強固な城を築(元和2年1616完成)いたが、五層の天守閣の建造が禁じられていたことから幕府に睨まれるという事件も起こった。
4.3 森忠政の藩経営
大事業である築城と共に腐心したのが吉井川の治水事業と城下町の構築であった。護岸工事は第2代長継の代の終りには城下全域の築堤が完成した。また、町は家臣士邸、侍屋敷、町人町、社寺で構成し、社寺を除く武士屋敷15万坪、町人町9万坪であった。また、城下防衛のため市街西部に寺町を設け、各宗派の寺院24寺を配置した。
一方、築城、治水、町つくりにもまして注力した領国経営では領国総検知による見積もり、年貢の決定、刀狩を実施し武力の回収、有力な国侍を長百姓にして大庄屋や庄屋層に組み入れ藩権力の末端として再編成した。4.4 森忠政の毒殺
津山藩主森忠正は後水尾上皇の御殿完成後行われることになっていた高仁皇の即位式の挙行を後水尾上皇にただし、3代将軍家光と談合するため寛永11年(1634)6月下旬天皇の勅使として京都に出向した。
7月6日、京都の公卿達は津山藩の御用商人である三条の大文字屋宗味邸で森忠正のため宴の席を設けた。この宴席で忠政は毒が仕掛けられた桃を食し、翌未明に65才で死亡した。また、忠政の嫡男忠広は前年の寛永10年(1633)津山藩江戸屋敷で幕府の謀略により死亡、毒殺と言われている。忠政毒殺後の11月、将軍家光は兵30万を率い京都に上り天皇家ならびに徳川幕府に批判的な諸大名を威圧した。4.5 第2代藩主森長継
初代忠政は嗣子の忠広が早く死んだので忠政の娘婿である家臣関成次の嫡男長継を養子にしていた。したがって長継は忠政の外孫にあたる。
幕府は寛永11年(1634)末、老中堀田正盛、酒井忠勝、土井利勝の3名連署による指示書により、長継が忠政の跡目をつぎ津山藩第2代藩主とすることを許した。この指示書には跡目許可の他、今後は植月御所に従うことなく藩政を専ら幕閣の命で行うよう申し付ける旨が付記されている。長継は隠居まで39年間におよぶ長い間藩主として大変思いやりのある藩政を行い、また、国内の神社・仏閣の造営にも力を注いだ。4.6 第3代藩主森長武
延宝2年(1672)2月、隠居した第2代藩主森長継の跡を継ぎ第3代藩主となった。その頃、幕府の植月御所に対する圧迫が烈しくなり、森藩は幕命により御所勢力の削減に努力せざるを得なかった。一方、在郷の豪族達は過去の事情を熟知した岡山藩士稲川亦之丞を招き藩主長武に御所の歴史や初代藩主忠政の約束を説明した。
これにより藩主長武は親御所政策へと考え方を一変し、御所を盛り立て第9代良懐親王を奉じ天皇に就かせるべく決意し、大量の武器の備蓄にとりかかった。また、長武は江戸の藩邸に再三柳沢美濃守吉保を招き饗応し、9代良懐親王を天皇にと懇願したが実現せず、かえって良懐親王の暗殺を招いた。
貞享2年(1685)、長武は南朝正系が作州に健在することを内外に知らしめる目的で「作陽誌」編纂を計画し、家老の長尾勝明に命じ儒学者江村春軒、河越玄を用いて大々的な調査を行った。先代藩主長継は幕府が「津山藩に陰謀の企てあり」と判断し取り潰しの対象にされるのを恐れ、貞享3年(1686)6月、渋る長武を2石の捨扶持で隠居させた。
その頃、すでに津山藩は幕府から危険な藩と目されていたが、それでも長武は執拗に調査を継続した。
元禄9年(1696)5月18日、幕府は「森長武、良懐親王(よしやす)を奉じ謀反を企つ」との罪名で切腹を命じ、その日、目白の関口屋敷で切腹、7月26日付けで森長武家2万石は廃絶となった。4.7 第4代藩主森長成
第3代藩主長武は第2代藩主長継の厳命により兄忠継の子長成にしぶしぶ藩主の座を譲り、長成は貞享3年(1686)16才で第4代藩主となった。元禄8年(1695)年10月、5代将軍綱吉は老中大久保加賀守を通じ津山藩と丸亀の京極家に対し中野村に犬小屋の建設を命じた。藩は長継の6男で新見藩を継いだ衆利を犬小屋建設総奉行に当て、120名にのぼる建設部隊を編成した。普請は現在の中野駅中心に犬小屋289棟、日除け309棟、餌さ棟148棟、釜屋28棟、役人長屋24軒、番所40、井戸117か所等々、工事は10月18日着工、12月4日完工の42日間の突貫工事であった。これに要した費用は雑費を含め現在の50億円以上にも上った。相役の京極家は身分は高かったが金は無く、費用は殆ど津山藩が負担することとなり、藩内の御用商人は勿論、京、大阪の豪商から調達した。津山藩はこの工事の負課で経済的に止めを刺されたと言える。このような工事による経済的負担は幕府が行う外様藩取り潰しの常套手段であった。元禄10年(1697)6月、藩主長成は江戸芝の上屋敷で一夜のうちに27歳の若さで急死したが死因は毒殺と言われている。将軍綱吉の「生類憐令」の最大の被害者は津山藩であった。
長成は性格猛々しく武勇に優れていたが領民への思いやりは少なく、国内の吟味は厳しく切畑、焼畑など新農地の検地に目こぼしなく正保以降元禄までに1万6千石も増石、また年貢米も倍層した。そのため百姓の困窮は計り知れないものであった。老人は飢え、幼児を育てることもならず、このまま長成の治世が続けば作州人は絶えるとまで囁やかれたと言われる。4.8 藩取り潰し
若くして急死した長成には幕府に届け出た後嗣が無かったので幕府は藩に後継者を選び出府させるよう命じた。藩は急遽長継の6男である新見の関衆利を後嗣と決め早籠で東上の途についた。しかし、衆利は犬普請受命による莫大な借金等の心労から第5代藩主となりこれ以上苦労するのはこりごりと東上の途中桑名の宿で狂人をよそい藩士安東定右衛門他1名を切り殺し、桑名藩の手で取り押さえられた。
この不祥事で藩主予定者が出府出来ず、幕府はこれを理由に元禄10年(1697)8月2日津山藩18万6千500石を取り潰し、津山森藩は断絶した。また、このとき前述のように植月御所5千石相当の親王領も取り上げ、良懐の親王号も剥奪し庶民に貶めた。
<抜粋終わり>※一部「忠政」を「忠正」と誤記があるようですが原文ママとしました。
津山藩森家の話は郷土史として語り継がれているようで、権威ある歴史書で扱われる類のものではないかもしれません。上記の記録が正しいものかどうかは筆者には判断しかねます。しかし、その他、いくつか見つけた情報と照らし合わせてみて信憑性が高そうです。津山付近には物証として寺院唐に石碑などが多数遺されています。
巨大な石碑(岡山県久米郡美咲町飯岡の郵便局前)

この森家の数奇な話を理解するには、まず「植月御所(うえつきごしょ)」が何かを知る必要があります。御所というのは天皇など特に位の高い貴人の邸宅を指します。岡山の美作、津山に御所があったのか?もちろん公式にそんな御所は存在しません。
植月御所というものは、現在の岡山県勝央町に伝わる「後南朝」の秘史と深く関わる地名で、植月城跡(小山城/宮山城跡)周辺に存在したとされる皇子や高貴な人物の居館跡を指し、特に後南朝の初代・高福天皇の皇子、尊秀親王の墓伝説が残る場所として、地元で語り継がれています。
ですので、話はもっと先の南北朝時代にまで遡ることになります。上記で参照した福田氏のWebサイトにおいても、南朝の系譜についての説明に多くの紙幅を割いていました。
概要を示すと下記になります。
① 南北朝時代:
南北朝時代(1336年〜1392年)は、日本の鎌倉時代と室町時代の間に位置し、皇室が北朝(京都)と南朝(吉野)の2つに分かれて激しく対立した動乱の時代です。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が天皇親政を試みましたが、武士の不満を買い失敗しました。そして武士の支持を集めた足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、足利尊氏は京都に別の天皇(光明天皇)を立て、後醍醐天皇は三種の神器とともに吉野(奈良県)へ逃れました。
足利尊氏が支持したのが北朝(京都)であり、持明院統の天皇を擁立し、後の室町幕府の基盤となります。他方、吉野に出奔した後醍醐天皇が正統性を主張したのが南朝で大覚寺統の天皇が継承しました。(実は南北対立の源流に、持明院統・大覚寺統の両統迭立という鎌倉幕府による仲裁策がありました。)
約60年にわたる南北対立による内乱は、1392年に室町幕府第3代将軍・足利義満の仲介により、南朝が北朝に三種の神器を戻す形で合一(南北朝合一)し、終焉を迎えました。
② 後南朝:
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、南北朝は形式的に合一しましたが、この際、将来は両系統から交互に天皇を立てる「両統迭立を復活」という取り決めが交わされました。しかし、北朝の後小松天皇の皇子(称光天皇)が即位したことで、この約束は反故にされたことが明確になりました。これに反発した南朝の皇族や遺臣らが、吉野など畿内周辺の山間部に逃れ、室町時代半ばまで抵抗を続けました。この南北朝合一後の南朝勢力を歴史学では「後南朝」と呼んでいます。
後南朝勢力は1443年(嘉吉3年)には京都御所を襲撃し、三種の神器の一部(剣璽)を奪い取る「嘉吉の変(禁闕の変)」と呼ばれる事件も起こしています。後南朝の抵抗は15世紀半ばまで散発的に続きました。
そして、応仁の乱(1467-1477年)では、西軍が大義名分を得るため、南朝の血を引く皇胤を擁立し、応仁の乱を単なる権力闘争から室町幕府の権威を揺るがす大乱へと発展させました。この「南帝」は1471年(文明3年)に京都に迎えられましたが、最終的には足利義視の反対などで頓挫しました。その後も後南朝の活動は断続的に続きましたが、室町幕府の権威失墜と戦国時代の幕開けを象徴する出来事の一つとなり歴史の闇へと消えていきました。
③ 後々南朝:※筆者による造語
応仁の乱の後、戦国時代以降、後南朝の話は権威ある歴史書から姿を消します。しかし、南朝の血脈が本当に絶えたのかどうかは定かではありません。それどころか、むしろ南朝の皇統は脈々と引き継がれていると考える研究者や識者がいます。
歴史書に記載される後南朝と区別するため、ここではあえて「後々南朝」と呼びます。
なにしろ南朝の祖である後醍醐天皇には、多くの皇子・皇女がいました。特に有名なのは、尊良親王、護良親王(大塔宮)、宗良親王、後村上天皇(義良親王)、懐良親王など8人以上の皇子、そして懽子内親王、祥子内親王などの皇女がいたとされ、子だくさんで知られ、中には30人近くの子を成したという説もあります。
中でも特に、南朝復興のため吉野から瀬戸内海・愛媛を経て九州(薩摩)に渡り九州全域を制覇した懐良親王は、中国の明から「日本国王良懐」と認められるほどの存在となったそうですが、記録によれば子孫がなく血脈が途絶えたことになっています。不可思議と言わざるを得ません。察するに南朝の血脈を遺すために秘密裡に日本中に子孫を潜伏させたのではないでしょうか。
ここで第3代藩主森長武の時、江戸幕府が「森長武、良懐(よしやす)親王を奉じ謀反を企つ」との罪名で切腹を命じたとありましたが、良懐という称号にピンときはしませんか。
各地の自侍勢力、地方の武家や郷士、郷民にとって、室町幕府以降様々な武将たちによる中央からの支配・統制は心地よいもののはずがなく、機会さえあれば南朝の子孫を奉って、自らが政権を握り、国家権力を手中に収めたいという野望があったものと考えられます。
美作や津山といった山合の地方都市で、南朝の子孫を匿い、南朝再興に向けて虎視眈々と機会を伺っていた武家勢力があったとしても何ら不思議はないと思われます。
全国に源平合戦からの平家の落人伝説、平家の隠れ里があります。それと同じぐらい、南朝の子孫、南朝の系譜が続いていたとしてもおかしくはありません。
中野犬囲いの歴史の話から、南朝の皇統の話に繋がる大きな展開があり、歴史の学びの奥深さに感嘆する次第です。
<最後に>
ちなみに、現代の皇室は北朝の子孫のはずです。
で・す・が、、、
明治時代に南北正閏論争(国定教科書での「両朝併立」記述が問題化し、南北朝時代に南朝と北朝のどちらを正統な朝廷とすべきかを巡る論争)が勃発して、国会が紛糾する事態になりましたが、結果的に「南朝が正統」とする内閣決定が下されています。(これは併立時だけの問題で、現代の天皇が北朝の子孫であっても万世一系の血統になんら問題はない。)
さらに、皇居の真ん前、皇居外苑内に巨大な楠木正成像が鎮座しています。もちろん楠木正成といえば南朝最強の守護神です。
◆皇居外苑の楠木正成像

なお、アジア太平洋戦争後には、「我こそが正統な天皇である」と主張する者が19人も現れたそうです(『十九人の自称天皇 昭和秘史の発掘』保阪正康 著)。特に有名なのはGHQが公式に調査に及んだ熊沢天皇ですが、全員ニセモノということになっています。しかし、全員本当に根拠のない虚言だったのでしょうか。
もしそうであるのなら、津山藩森家の郷土史も根拠のない虚言に基づく創作になりかねません。そうなると、今回の話で歴史の深淵に触れたようでいて、その実、かどわかされただけという、なんとも味気ない話になり、筆者としてはとても残念に思う次第です。
このコラムについて
引用元・参考文献・参考ページ
参考:岡山県立津山高等学校卒の福田和義氏によるWebサイト(現在は閲覧不可)
参考文献:地方の知られざる歴史 -美作後南朝の滅亡と津山藩森家の取潰し- 秋久 幸雄氏
協力:岡山県立津山高等学校同窓会

