
高円寺、名曲喫茶「ルネッサンス」の檜山さんへのインタビュー(ルネッサンス前編)
「名曲喫茶クラシック」の記憶を辿って
中野駅北口、現在のサンモール商店街を進み、左へ少し入った路地に「クラシック」という喫茶店があった。名曲喫茶として知られ、大音量の音楽、薄暗い店内、独特の空気感をもつその店は、今でも多くの人の記憶に強く残っている。あの店にはその時代をぎゅっと閉じ込めたような感触があった。
現在、高円寺で名曲喫茶「ルネッサンス」を営む檜山真紀子さんは、高校時代からクラシックでアルバイトとして働き、閉店の時期にも関わった人物の一人だ。ルネッサンスにはクラシックで使われていた家具やレコードなどの一部が受け継がれている。中野のクラシックを訪れたことがある人なら、この場所に懐かしさを感じるはずだ。今回は、檜山さんの記憶を手がかりに、クラシックという場所がどのような空間だったのか、そしてその経験が現在の店へどのようにつながっているのかを辿る。
「じゃあ来週から」 中野クラシックで働くことになった
檜山さんがクラシックで働き始めたのは1989年、高校3年生のときだった。きっかけは、深夜番組でクラシックが紹介されている映像を見たことだったという。
「中学生の頃、堤幸彦がやっていたメンズウーという番組に、原田知世さんと後藤次利さんがクラシックを訪れているのを見て、面白そうだなと思いました。いつか行ってみたいと思っていたんです。高校3年生のときに初めて行った日に、たまたまアルバイト募集の張り紙が出ていて、その場で聞いたら『じゃあ来週から』と言われて。そのまま働き始めました」
履歴書も面接も、特別な説明もなかった。クラシックではそれが普通だったようだ。働き始めると、接客方針や仕組みも、普通の喫茶店とはまったく異なっていた。
「マスターの方針で『いらっしゃいませ』も『ありがとうございました』も言わなくていい、という店でした。注文を聞いて、出す。それだけ。お客さんと無理に会話する必要もありませんでした」
90年代前半のクラシックは、お客さんが店員に話しかけるのも少し怖い雰囲気だったようだ。注文を受けて、ドンっと出す。それだけ。私がクラシックに足を運んだのは2000年代に入ってからだったが、確かに店員の愛想が良かった記憶はまったくない。
店の仕組みも独特だった。給料は週払い。「1000円前借り制度」があって、帰りの電車賃がなければ1000円を借りて帰ることができた。店に来たらバナナを1本くれる制度もあった。週5日働いたら、前借りの5000円を引かれて給料をもらう。働く側が生活に困らないような仕組みが、結果的にできあがっていた。週払い制度はクラシックの閉店まで続いた。
あとトイレは男女別で、トイレットペーパーはドアの外にあってご自由にお取りくださいっていう仕組みだった。トイレットペーパーを取ってから中に入る謎の方式で、知らずに入ってしまうと、中にはトイレットペーパーがないので大変な事態になる。でもそのトイレはよく故障して、そのたびに「サンプラザのトイレを使ってください」という案内が貼られた。路地を中野通りに出て、渡って向かい側にサンプラザの脇の入口があり便利だった。
初代マスター美作七郎さんのこと
クラシックは昭和20年終戦の年に画家・美作七郎さんがオープンした。以前は高円寺でルネッサンスという店をやっていたが、空襲で燃えてしまい、あらためて中野の路地裏にクラシックを開店した。

「初代マスターは、発明好きで何でも自分でつくってしまう人でした。炊飯器のスイッチをわざわざ別のところにつくったり、洋服は全部手作りで折りたたみ傘の解体して蝶ネクタイをつくって身につけていたり。ゴーカートみたいな車も自分でつくって走らせてたそうです。入れ歯を自分でつくって歯医者に怒られたとかいう話も聞いてます。お店では注文を受けたときの装置も自作で、レジに棒が3本あって、コーヒーならそのうち1本を引っ張ると、厨房につながっていて、道路とかで人が何人通るか数えてる人がカチカチ使うカウンターがカチってなるみたいな。これは画期的でした。クラシックっていうと、コーヒーのミルク入れがマヨネーズのキャップだったり、水を出すコップがワンカップとか有名ですけど、店員だけが知っているみたいな面白いものもたくさんありましたね。そんなこともあって、マスターは中野の三奇人のひとりと言われていたそうです。他の二人のことは知らないですが。」


檜山さんはマスターが亡くなる直前にクラシックで働き始めたので、美作さんとの直接の接点はほとんどないが、こうしたエピソードの多くは、マスター亡き後、二代目である娘の良子さんから聞いたものだった。
「良子さんは、お父さんのことが本当に好きで、『この店は1億円の価値がある』とよく言っていました」
90年代後半〜2000年あたりのクラシックの様子
名曲喫茶というと、クラシック音楽を聴きに音楽好きたちが集うイメージがあるが、中野のクラシックの客層は極めて幅広かった。

「昼休みのサラリーマンもいれば、学生もいるし、ブロードウェイに行く途中の人もいる。日雇いの方や、アルコール依存症の方もいました。特定の層が多いという感じではなかったです。かつては五木寛之さんや文化人が来て、美術談義をするなど、思い出話を聞いたこともあります。私が働いていた頃は、大槻ケンヂさんはたまに来ていましたね」
クラシックをリクエストして聞きに来る人、それ以外に普通の喫茶店として来る人、様々な人が集う店内は、大音量の音楽と、大きな声で話すお客さんたちで、常にカオスの雰囲気を漂わせていた。先払いだったのもあり、長時間過ごす人も多かった。檜山さんがバイトに入った頃はコーヒーとジュースは200円、紅茶は170円ととても安かった。その後、250円均一になり、閉店の頃には、記憶が曖昧だが300円か400円くらいだったそうだ。
「基本的には接客をしないので、あまりお客さんのことは知らないんです。それでもいろんな人たちがいましたね。外でワンカップを飲んで入ってきて、他のお客さんに絡んだり、失禁しちゃったり。何度もワンカップ飲んで戻って来る。すごかったです。良子さんがいるときには良子さんが追い返すんですが、私たちだけになったら警察を呼ぶこともよくありました。パトカーで連れて行かれる。でもまた来る。クラシックが好きだったんでしょうね。迷惑なんですけど、なんでか、面白いんですよね。」
普通なら出禁にしそうなお客でも、常連としてまた迎え入れる懐の深さもあったようだ。そんな人が、酒をやめていた時期があったとか、団地があたって引っ越していったとか、いいところも悪いところも時間の経過とともにみていた。
「開店時間とともに入ってきて、クラシック音楽とか本の話とかをずっとおしゃべりしてたご近所のおじいちゃんたちもいました。毎日やってきてずっとおしゃべりしてる。夫婦喧嘩したお客さんが、今離婚するから、証人としてその場であなた見ててって頼まれて、いやいや無理ですってやりとりすることもありました。あとテレビ局の女性アナウンサーのさんのおじいさんが、近くの病院に奥さんのお見舞いの帰りに必ず立ち寄ってくれました。すごい上品な方で、必ずラヴェルのボレロをリクエストするんです。差し入れに持ってきてくれたチョコレートがすごく美味しかった。良子さんは他にリクエストがたくさん入っていても、すぐにボレロをかけてました。特権階級ですね。」
名曲喫茶だからリクエストする客ももちろん来ていた。当時使っていたリクエストボードは、今でも現役でルネッサンスの壁にかかっている。


「あのころサンモールを入って右側に映画館があったじゃないですか。あそこで時々ゲイ・レズビアンナイトをやってたんです。映画の上演前後にカップルがいっぱい来て、2階にいって、なにやら何したり、イチャイチャしたり。2階は薄暗いし、用事がなければ店員も上がらないから、怪しい雰囲気が漂ってました。無法地帯みたいな感じで、ある時、風営法違反ではないかと言われて警察が来たこともありましたね。風紀が乱れるとか言われてもね、なんかお客さんが勝手になんかね、結局、まぁ、仕方ないかなってなったり。あとはサンプラザでコンサートがある日も人がいっぱい来ましたね。」
ここに出てくる映画館は中野武蔵野館、のちの中野武蔵野ホール。戦後から2004年まで中野にあった名画座。私が前を通っていたのは2000年代、任侠映画やマニアックな邦画を上映していて結局一度も入ることがなかった。閉館するまで一度も入ったことはないけれど、あの場所に映画館が残っていたら、中野も彩りがあって良かったのになぁと思うこともある。
「人じゃないですが、猫も隙間から入ってきていました。隙間がすごかったから入りたい放題。ある日、猫がボロボロの椅子の隙間に子猫を産んで、そのまま育児放棄しちゃった。その一匹は今ここルネッサンスで古着屋「解」をやっているバイト仲間が引き取って育てました。その後、また懲りずに子猫を産んで、今度はちゃんと子育てをしてました。お店を開けてる時には出かけてるんですが、朝来ると店内にいて威嚇してくるんです。なんで自分の家に入ってくるんだよって。猫を飼っていたというのではなく、勝手に住み着いていたような感じでしたね。」
後編に続く


