
中野暗渠探検〜みえない川をみつけにいこう
第2回 桐ヶ谷橋を追いかけて
東中野の道端に落ちているミステリー
ここは中野区、東中野1丁目だ。ただの住宅地の、昼下がりの路上である。

ただの路上である……けれど、よく見るとなにかちょっと、気になる。
なんだか妙に大きな石が落ちているのだ。
近寄ってみよう。

石には文字が彫ってある。「桐ヶ谷橋」。
どうやらこの石は、橋の一部らしいということがわかる。
近くに、切り離された残りの半分も置いてある。

説明板などは一切ない。ただ石が置いてある。……いったい何があったというのだろう。住宅街のなかに、ミステリーの匂いがぷんぷんする。
近くには神田川が流れているが、桐ヶ谷橋という橋はないし、サイズも合わない。
これはいったい、どういうことなんだ?
東中野一丁目を探検する
橋があるけど川はない。この状況は「近くに暗渠がある」ことを指す場合が多い。目の前の道が小川だった、というケースが多いが、神社や学校などに移設保存されているケースでは、暗渠は少しだけ離れているところにあったりもする。
この桐ヶ谷橋に関していえば、東中野会館の室外機の前に置いてある。これは、近くの小川が暗渠化されるときに、地元の人が公共の場所へと運んできたもの、という可能性が高い。
では東中野会館の近くを、かつて川だった道を探して歩いてみよう。
すると、一本西側にある道が、暗渠らしい雰囲気をまとっていた。
細くて、ゆるやかに蛇行する道。段差があって、護岸のようなものも残っている。

ここが暗渠に違いない。でも、いったいどこから流れてくる小川だったのだろう。そして、桐ヶ谷橋はどこに架かっていたのだろう?ここの住所は東中野で、桐ヶ谷という地名は見当たらないのだ。
こういうときは、古地図の力を借りて探ってみよう。
古地図上を探検する
大正時代の地図を見てみると、さっきの道はやはり川だった。ただし上流へさかのぼると少し複雑で、桃園川の傍流(筆者は谷戸川と呼んでいる)へとつながるが、途中で神田川から取水した水路も交わっている。
稲作がおこなわれていた時代は、川から取水して田んぼへと供給する「あげ堀」と呼ばれる水路が存在していた。この水路は神田川のあげ堀と谷戸川の水が入り混じりながら、神田川左岸の田んぼを潤す用水路だったのだろう。

古地図上では、東中野駅のすぐ右に池がある。長方形を複数集めた特徴的な形のこの池は、養魚場だった。中野の伝承に、谷戸川沿いにあった農事試験所(現在の城山公園)から流れてきたエゴの実でここの養魚場の魚が全滅した、というものがある。その話からは、谷戸川とこの暗渠、そして養魚池が接続していたことがわかる。
古地図からはまた、「桐ヶ谷」という地名も読み取れる。桐ヶ谷という地名は昭和6年まで存在していたが、その後、川添や氷川となり、東中野になった。現在その名を残すのは、中央・総武線の桐ヶ谷ガードくらいだろうか。
「桐ヶ谷橋」は、旧地名桐ヶ谷のどこかに存在していたはずである。
歴史をふかぼると見えてくるもの
郷土資料を見ていくと、「桐ヶ谷橋」は、江戸時代に架け替えの普請が出されていた。つまり、江戸時代からある道に架かっていた。また、「桐ヶ谷道」と呼ばれる道もあった。桐ヶ谷橋は、桐ヶ谷道の延長線上に架けられていたのではないだろうか。
地元の方への聞き取りでは詳細が分からず、切断や移設の経緯は不明のままだが、橋の位置は東中野会館からごく近いところだったようである。

郷土資料からは、ほかにも面白いことがわかる。2020年にその幕を閉じてしまったが、東中野駅前には日本閣という結婚式場があった。実は日本閣には、先述の魚が全滅した養魚場を創業者が買取り、釣り堀とし、釣り客に料理を出すうちに料亭へと発展し(釣り堀は阿佐ヶ谷に移転)、結婚式場に相成ったという歴史がある。
このちいさな暗渠沿いにはほかにも、水辺に集まる施設があった。かつては第二薬師湯という銭湯があり、昭和初期にはその隣に東中野市場という市場があった。いまは静かな細道だが、かつてここには水路があり、この先で養魚場の魚が泳ぎ、銭湯の排水が注ぎ込み、市場での賑やかなやり取りが聞こえてきたことだろう。
暗渠は線路の手前で盛り土に阻まれて追えなくなるが、そこには少し前まで、味わい深い階段もあった。現在は、現代らしく昇降しやすい階段に変わっている。


小川は暗渠になり、銭湯もなくなり、ついには日本閣もなくなった。暗渠上の風景さえも変貌した。それでもなお、あり続ける路傍の石橋。桐ヶ谷橋は、小川の記憶を継承する残り少ない存在として、いまも黙ってそこにいる。

